北条義時の死には謎が多い。また大河ドラマでは三谷幸喜のネタバレ?で義時は自然死しないように語っている。急死、三人目の妻による毒殺、近習の小侍による殺害など、当時から不審な噂が
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三谷幸喜の脚本で、遊び心というか、エンターテインメントとして秀逸
しかも、ときおりサスペンス的要素が盛られている
これが、コア層もライト層も、いろいろ推理してネットは賑やかに
源頼朝の死では、北条義時の犯行が疑われている
最後に義時が水を渡しているので、彼による毒殺という推理もあるようだ
ただ、頼朝は上洛時も水分を多く取っていたと言われていたので、糖尿病説を臭わせているのではないだろうか
さらに、武家の棟梁が落馬で死亡とは面目ないので、義時は八田知家に頼んで、骨も残さないように、死因の邪推を封じたと思えるが…
源頼朝の代には、上総広常、源義仲、源義高(義仲嫡男)、一条忠頼(武田嫡男)、平家(清盛系平氏)、源行家、源義経、藤原泰衡、工藤祐経、源範頼 などが殺されている
源頼家の代では、梶原景時、阿野全成、頼全(全成三男)、比企能員と一族、仁田忠常、そして一幡(頼家長男)、さらには頼家さえ殺されている
その後、畠山重忠、稲毛重成、平賀朝雅が殺され
北条時政と妻の牧の方も伊豆へ追放
和田義盛も族滅
さて、実朝暗殺事件
年月 | 死者 | 戦乱事件など | 享年 備考 | 殺害(命令)者 |
---|---|---|---|---|
1219年1月 | 源実朝 | 暗殺(鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際) | 享年28 | 公暁(頼家息子) |
1219年1月 | 公暁 | 誅殺 | 享年20 | 義時・義村 |
1219年2月 | 阿野時元 | 誅殺 | 阿野全成と阿波局の子。源氏 | 義時命 |
1220年5月 | 禅暁 | 享年17~19。源頼家四男 | 義時命? | |
1221年5月~ | 承久の乱 | 戦後武家政権は東国から日本全土に拡大 | ||
1221年8月 | 三善康信 | 享年81? | ||
1224年6月 | 北条義時 | 享年62 | ||
1224年6月 | 伊賀氏の変 | 義時の継室伊賀の方と兄の伊賀光宗 | ||
1224年6月 | 北条泰時 三代代執権 | |||
1224年8月 | 伊賀の方 伊豆へ配流 | 同年12月に危篤の報が鎌倉に | 政子命? | |
1225年7月 | 大江広元 | 享年67? | ||
1225年8月 | 北条政子 | 享年69 | ||
1227年12月 | 阿波局 | 阿野全成 妾 | ||
1239年 | 三浦義村 | 享年71? |
北条義時の死は、承久の乱の3年後
彼の死はいろいろ推理されているが、北条執権体制はほぼ揺るがない
義時の3番目の妻 伊賀の方は伊豆へ配流されて、数カ月後に死亡しているようだ
大江広元や北条政子が亡くなっても、三浦義村が長生きしても、北条はほぼ安泰だった
北条義時が、もし殺害されたとすれば、
犯人捜しと同時に、その犯行の動機を探りたい
承久の乱の発端は、後鳥羽院の愛妾の荘園の守護交替という武士の土地・収入を奪う要請、および北条義時個人の追討の院宣が発せられる
東国の武士が、義時や北条を討つのではなく、朝敵となっても京・朝廷に反逆したことが、当時の義時と北条、あるいは尼将軍政子の権力や人望があったと言える
北条泰時は、幕府の祖廟として、源頼朝・北条政子・北条義時を祀っていたとのこと
さらに北条の子孫は、義時を始祖として扱っている
時政は除外された
義時は、北条氏子孫からも、鎌倉幕府にとっても、絶大な尊崇を受けている
義時の息子たちは、得宗家の泰時をはじめ、後の北条氏鎌倉政権の重鎮となる
泰時:得宗:三代執権
朝時:名越流祖
重時:極楽寺流祖
有時:伊具流祖
政村:政村流祖:七代執権
実泰:金沢流祖
源氏将軍が三代で滅亡したものの、義時の子孫は繁栄している
(もちろん、北条氏も滅亡して、足利氏の室町幕府に取って代わられるが…)
義時の弟、北条時房も初代連署など幕府の重鎮となり、子孫は大仏流や佐介流なども
ただし、義時の直系ほどではない
また、重時の嫡男 長時は六代執権、赤橋流の祖となり、最後の十六代執権が赤橋守時、守時の妹 登子は足利尊氏の正室である
なお、鎌倉時代では、足利氏は代々、北条から正室を迎え、さらにその間に産まれた男子が嫡男となっている
源氏の足利氏さえも、鎌倉で生き延びるためには、そのような北条絶対の状況だったのだろう
足利尊氏は、義時・泰時の時代の治政を見本とすべきと記している
おそらく、朝廷を抑えて、日本全国区の武家政権を創造した功績だろう
皇国史観の参考書とも言うべき神皇正統記でさえ、北条義時に落ち度はなかった、朝敵指定した後鳥羽上皇の勇み足と断じている
つまり、数多くの御家人を族滅させたことはもとより、源氏将軍に取って代わった程度では、非難するに値せず、東国の武士団が団結して反逆したことで武家には人望があった証左ということか
北条義時が亡くなったとき
鶴岡八幡宮では神事を延期
将軍以外の死では前例がない
朝廷も天下触穢を発して、京では30日間の触穢となった
頼朝以来
源頼朝と並ぶ処遇と言えるだろうか?
もし、北条義時が殺害されたとすれば、何らかの偶発的な事故で、表だって誅殺される状況にはなかった
なお、吾妻鏡では、体調不良による急死となっている
また、伊賀の方(菊地凛子:のえ)に毒殺された噂もある
さらに、近習の小侍に殺害された話も
大河"サスペンス"ドラマとしては、源頼朝を否定し、武家政権を揺るがす言動が見られた、という設定だろうか…
これ以上は、ドラマの話になるので、ここで終了したい
結論としては、教唆するものを含め、義時殺害の黒幕も実行者も、誰でもありと思う
伊賀氏の変は、北条義時の三番目の継室 伊賀の方(ドラマではのえ:菊地凛子)が首謀者で、息子 政村を執権に、娘婿の一条実雅(藤原氏)を将軍にと画策したとされている
伊賀の方の兄 伊賀光宗が、例によって三浦義村と組んで、上記を企んだ
他方で、北条政子は、京から戻った泰時を執権に就け、義村に釘を刺して、事なきを得る
政子主導で、伊賀の方は伊豆北条へ配流
伊賀光宗は信濃、光宗の弟朝行と光重は九州へ
一条実雅は公卿なので、一度京都へ送還し、その後越前へ
ところで、泰時は「伊賀氏の変」を否定、肝心の伊賀の方の子 政村はおとがめなし、また政子の死後、光宗、朝行、光重は鎌倉に戻されている
ただし、伊賀の方は伊豆にながされた数カ月後に危篤との知らせ
一条実雅は配流先の越前で変死
義時と政子が示し合わせて、万が一の時は(つまり義時の死後)、泰時を執権に任ずること、伊賀の方と三浦義村に濡れ衣を着せて、陰謀の芽を摘むように仕組んだとも想像できる
北条義時の子孫も、幕府滅亡までは栄華を極めるが、牧の方も、時政とともに鎌倉で騒動を起こすが、時政の死後も京都で元気いっぱいであったようだ
平賀朝雅の妻だった娘は、藤原国通と再嫁
牧の方は時政の死後に、この京都の娘夫妻の元に身を寄せ、贅沢に暮らしたとのこと
国通の邸で時政の十三回忌を行い、さらに一族を引き連れて諸寺詣でも
なお、藤原国通は、実朝暗殺に遭遇
承久の乱後も、鎌倉側との関係は良好、幕府の推挙で権中納言に昇進。従二位にも
おそらく、鎌倉北条の政治的金銭的バックアップがあり、牧の方も鎌倉方に協力をしていたと想像する
別の娘は宇都宮頼綱(優れた歌人)に嫁ぎ、その娘(牧の方の孫)は、藤原定家の嫡男 為家の妻となっている