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「鎌倉殿の13人」御成敗式目と北条泰時 承久の乱と実朝 義時の死

「鎌倉殿の13人」御成敗式目と北条泰時 承久の乱と実朝 義時の死
泰時と御成敗式目が全国武家政権を確立。土地と収入と武士との関係が頼朝挙兵から御家人政権を誕生させ、北条執権の支配と承久の乱の勝利につながる

御成敗式目は土地問題を裁定

鎌倉時代の荘園の領主は公家や寺社
そこに配されるのが地頭などの武士
その武士は、徴税代行者で、他者の窃盗などを防ぎ、また徴税を円滑にするため武力を用い、手数料をもらって領主に納税

税収をめぐって武士が台頭したことが、藤原摂関家をメインとした公家の凋落と武士を直轄において(西面の武士など)院政の隆盛をまねき、後白河院が平家や源氏の時代を引き寄せ、後鳥羽院が全国武家政権を呼び込んだとも言えるかもしれない

公家や寺社の領主と地頭(武士御家人)との争い

御成敗式目は、主に領主と地頭のもめ事、訴訟沙汰を裁定する目的があった

この時代の法は、公家向けの律令しかなく、承久の乱後、武家政権が関東地方区から日本全国区に拡大したこともあって、とくに土地や税収をめぐる争いも、ローカルからナショナルに解決する必要が出てくる

武士御家人も、地頭や守護として土地の収入が目当てであり、鎌倉殿も、地頭や守護を任じたり、あるいは御家人同士の土地争いを調停したり
13人の評定衆も、主たる業務は、鎌倉殿の負担軽減や独断専行を抑えるもの

頼朝政権の誕生から、数々の合戦、御成敗式目まで、鎌倉時代とは「武士と土地と収入の関係」がベースと捉えることができる

重大な政権交代のときに法整備

じつは、室町初期に足利尊氏が「建武式目」を制定させる

御成敗式目の改廃ではなく、また不思議なことに北条義時・泰時の治政を理想としている(得宗独裁は否定しているらしい)

武家政権の政治方針の明確化だった

徳川初期の「武家諸法度」
壬申の乱後の、「飛鳥浄御原令」
などなど

源実朝暗殺の黒幕を探る

2022年11月14日現在、次の日曜日の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源実朝が兄頼朝の子の公暁に暗殺されるようだ

ここでは、ドラマから離れて、つまりドラマの成り行きがどうであっても、実朝暗殺の、黒幕を推理してみたい

三浦義村は黒幕なのか?

昔から、公暁による実朝暗殺の黒幕は、三浦義村と言われている
ドラマでも、義村(山本耕史)が煽っていた

三浦義村が黒幕として、その第一目的は?

北条義時を葬り、執権の座を得て、鎌倉の武士の頂点に立つ?
ただ、義時が源仲章と入れ替わっていたため、公暁を討って殺人教唆を無かったことにした?

まず、公暁は現役の鎌倉殿を暗殺したので、鎌倉殿にはなり得ない
乳母父の立場を活用しても、公暁は鎌倉殿になれないので、義村も執権にはなれない

もとから、公暁は当てにせず、頼朝系源氏と義時亡きあとの、京から迎えた鎌倉殿・将軍を担いで、執権になろうとしたのか?

これは、後に未遂に終わったが、第四代将軍の九条頼経を担いで得宗の打倒を企図した宮騒動の先駆だったかもしれない

北条の血統である頼朝源氏が鎌倉殿や、後見の大御所など、北条血縁を排除したかったのだろうか?

とにかく、義村が黒幕だとしても、何が目的だったのか、推理不能である

北条義時は関わっているのか?

さて、北条義時が黒幕だとしたら、第一目的は、北条家による執権職の護持か?

とにかく、源仲章を討ちたかった
公暁も、鎌倉殿になっては、父の頼家と同じように面倒臭そう

義時が黒幕なら、仲章を討ち、鎌倉殿を襲ったかどで公暁を討つ
ただ、実朝まで殺害されるとは想定外だったかもしれない

もし、京朝廷、後鳥羽上皇の影響を少なくしたい、上皇の子を鎌倉殿として迎えたくない、それが実朝殺害の目的だろうか?

ただ、実朝暗殺で、上皇の子が意気込んで鎌倉支配に乗り込んでくるかもしれない
あるいは、皇子将軍の目がなくなり、さらには鎌倉殿・将軍空位で、武家政権が潰れるかもしれない

よって、義時黒幕説の推理としては、あったとしても源仲章と公暁の排除までで、実朝暗殺は選択肢になかったと思える

また、鎌倉殿の空位を埋めるべく、鎌倉側は(義時?)あいかわらず皇子将軍を求めている
つまり、朝廷・上皇の影響力を阻害するために、実朝暗殺を企てたわけではないはず

義時単独の黒幕はなし、義村との共謀はありか?

実朝暗殺は、1219年1月
同年2月、阿野時元(阿野全成と阿波局の子)、将軍を狙った廉で誅殺
1220年5月、禅暁(源頼家四男)、京にて誅殺
義朝・頼朝系源氏は族滅

義時は源氏を根絶やしにしたかったのではなく、鎌倉殿に担がれて坂東が不穏になりかねない源氏を滅ぼしたと思いたい

後鳥羽上皇黒幕と公暁単独

あとは、後鳥羽上皇が黒幕説もあれば、まったくの公暁単独犯説もある

北条義時の死の真相を探る

さて、ネットでは、北条義時は自然死ではなく、暗殺されたと噂されている
これは、大河ドラマとして、あるいは事実だとして、語られている

筆頭は、継室の伊賀の方(のえ 菊地凛子)で、バズワードにもなっているキノコによる毒殺である
藤原定家『明月記』で、義時死後3年目に承久の乱の首謀者の尊長が「義時の妻が義時に飲ませて殺した薬で早く自分を殺せ」と言ったとか…

ちなみに、義時の氏に際して「伊賀氏の変」が起こったとされ、伊賀の方は伊豆へ流罪、四カ月後になくなる

ただし、泰時は「伊賀氏の変」を否定、伊賀の方と義時の子 政村は連座せず、配流された伊賀氏の光宗(伊賀の方の兄)や朝行・光重(光宗の弟)も政子の死後に復帰

なにはともあれ、伊賀の方による毒殺は、疑わしい
ドラマでは、どうなるか分からないが…

また、ある記録によると、近習の小侍に刺し殺されたとの風説もある
これまた、ドラマであれば黒幕が誰かは問題になるが、実行者がトウ(山本千尋)という過剰演出もありかも

ドラマの作り方に影響されて、義時を嫌う泰時や、頼家などを殺された政子などの名も挙がっている
ただ、そうなると、義時個人が朝敵に指定されて起こった承久の乱で、政子が演説したり、泰時が大将軍として京へ攻め入ることと整合性がなくなる

承久の乱の鎌倉勝利を探る

北条義時が、数々の殺人を主導しているが、明治から戦前までは殺人者とか源氏政権簒奪者というよりも、上皇や天皇を配流した朝敵として嫌われている。

同じく朝敵あつかいされていた足利尊氏も、泰時だけでなく義時も武家政権が見ならうべきと評価している

また、皇国史観の歴史書『神皇正統記』では、義時に落ち度はなかった、後鳥羽上皇は義時以上の善政を敷いて討つべきだった、と批判している

義時追討に関しては、同時代でも、土御門上皇を筆頭に摂関家や多くの公卿たちも反対または消極的、ドラマでは後鳥羽上皇の提灯持ちとなっている慈円も、鳥羽上皇亡きあとは武士の世になったと嘆息しており、武家政権の必然性を認識していた

土地と収入の武士との関係

実朝の死に際して、皇子将軍を送る条件として、愛妾亀菊の所領の守護を解任、ならびに鎌倉の許可なく西面の武士として上皇に仕えた御家人の所領を没収したが、この処分の解除を要請

結局、鎌倉殿・将軍の問題よりも御家人の土地と収入の問題に転化し、今後もことあるごとに因縁をつけて御家人の土地や収入を奪い、好き勝手に鎌倉御家人を朝廷配下に任ずる予兆を感じさせてしまった

朝敵は、北条義時個人が名指しされたのだが、後鳥羽上皇の意図は、将来的に御家人の利益を損なうものと受けとめられたのだろう

さらに、頼朝が朝敵あつかいされても撤回された過去があり、朝廷は利益誘導ではなく官位をぶら下げたが、鎌倉側は新しく守護や地頭に任じられ、土地や収入が増える実利の期待感があった、それ以上にも既得権を失いかねない懸念も大きかったと言えるだろう

北条泰時は、息子の時氏を加え20騎足らずで鎌倉を出立、東海道を進軍。時房も参戦し、最終的に10万騎
北陸道は、北条朝時が率いる4万騎
中山道は、武田信光と小笠原長清の5万騎

北条は、泰時・時氏親子、朝時、時房などが大将軍となって合戦を指揮
参戦した御家人も西国各地に土地を取得、収入アップ
日本全国を支配する武家政権が、誕生する

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