まぐまぐメールマガジンで連載していた「鎌倉殿の13人」 源頼朝は鎌倉および東国に画期的な武家政権の端緒を、そして北条義時は承久の乱で歴史的な武家政権を樹立。明治維新まで約650年続く
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源氏将軍が三代で滅亡し、将軍・鎌倉殿に摂関家や皇族を迎えて
150年ほど、
武家政権を継続できたのはなぜか?
しかも、政権トップは北条執権
不思議に思わないだろうか?
ポイントは、
源頼朝による鎌倉幕府・武家政権の誕生
その過程での、源氏や有力御家人の死者累々
京都・朝廷・権門と坂東・武士・土地
そして、承久の乱
源氏将軍が三代で族滅、朝廷の権威が凋落し、武士政権は東国ローカルから西国を含む日本全国ナショナルへ
日本史上初の武家政権の頂点に立ったのは北条氏
なぜ、「鎌倉殿の13人」や承久の乱に惹かれるのか?
屍累々の権力闘争がおもしろいわけではない
明治維新は、惟(これ)新た
王政復古
つまり、鎌倉以降の武家政権を打倒
幕末とは、徳川幕府の末というだけでなく、約650年続いた武家政権・幕府の終わりでもある
逆に鎌倉幕府は、朝廷貴族から武士主導の革命政権を樹立したと言える
源頼朝は、流罪人として生涯を終えた可能性がある
平家打倒はもとより、武家政権、幕府、鎌倉殿、征夷大将軍などは、夢にも思わなかったのではないかと疑っている
後白河法皇の第三皇子 以仁王が、平氏追討の令旨を全国の源氏に発する
しかし、以仁王の反乱は失敗、平家方に討たれる
かつ、後白河法皇が選んだ高倉天皇や安徳天皇の皇位継承も否定していたので、朝廷側も謀反人と捉えるようになる
平家側の、全国源氏掃討を危惧して、頼朝は仕方なく挙兵したのではないだろうか?
また、頼朝に味方した武士たちも、平家の圧力を受けてやはり仕方なく頼朝に加勢したとも思える
源頼朝の目的、目指したものは、武家の首領、源氏の棟梁だけではなかったのか?
平家打倒はもとより、武家政権、幕府、鎌倉殿、征夷大将軍などは、当初は眼中になかったと思う
よって、頼朝の敵とは
源氏の血統が多かったので、兄弟を含む棟梁争い
穏便にか暴力的にか、他の源氏を抑え込むことが最優先だったのでは?
頼朝は、武家としては、東国は自分の源氏、西国は平家、と後白河法皇に提案している
奥州藤原氏は、東国支配の確立、また祖の八幡太郎義家の事跡のバージョンアップ、滅ぼしてこそ武家・源氏の棟梁として君臨できることになったのでは
何はともあれ、平家滅亡は結果論のように思える
じつは、頼朝は娘を天皇の嫁にしようとしていた
つまり、まるで平清盛のように、わが血を引く天皇を擁立して
外戚として権威を高めようとしていたのではないだろうか?
とにかく、行き当たりばったり過ぎる
さて、「鎌倉殿の13人」は、登場人物が多く、またよく知らない人物がさらに多い。
頼朝の命によって殺害された人は、じつは、源氏が圧倒的に多い
源義仲 義高 親子
一条忠頼:武田信義嫡男
源行家
源義経:頼朝の弟
源範頼:頼朝の弟
源氏以外では
上総広常、平家、奥州藤原氏 など
頼家が鎌倉殿に就任して、御家人による「十三人の合議制」がはじまる
その根拠としては、北条氏忖度の『吾妻鏡』では、頼家が非情に暗愚なトップであったとされている(だが事実は不明)
いわゆる「
鎌倉殿の13人」で、
天寿を全うしたと思われるのは
武士では
三浦義澄
安達盛長
足立遠元
北条時政
三善康信
文官では
中原親能
八田知家
二階堂行政
大江広元
以上の人たちで、意外に多い
13人の中で誅殺された御家人は
梶原景時:族滅
比企能員:族滅
和田義盛:族滅
景時は、鎌倉武士のほぼ総意
比企氏は、北条氏と仲間たち
和田氏は、時政失脚後、義時が主導
13人以外では
畠山重忠 族滅(時政と牧の方の主導)
さらに源氏では
"阿野全成"は、頼朝の弟、北条氏の婿で
頼家と比企氏によって流罪後、誅殺
"源頼家"も出家、流罪、誅殺
牧氏事件の流れで、義時主導で
時政と牧の方は、出家、伊豆で謹慎
二人の婿、源氏の"平賀朝雅"も、京都で誅殺
"源実朝"が、頼家の息子の公暁に暗殺され
"公卿"も三浦義村の手の者に誅殺される
阿野全成の息子"阿野時元"も、北条氏に縁があるものの
義時主導で誅殺される
頼朝以降でも
主に北条氏主導で、とくに義時の命によって
源氏、つまり鎌倉殿候補が、次々と討たれていることが特筆される
桓武平氏や清和源氏など、武家も、天皇の血筋
そして源平は、武士とか武家というよりも、軍事貴族
ただし、それだけでは政権に参加できない
平清盛は、一族の娘を入内させ、その子 安徳天皇を擁立
源頼朝も、征夷大将軍の官位ではもの足らず、娘を入内させようと画策
結局、源平の軍事貴族も、権力の確保には朝廷の権威付けが必要だった
手っ取り早いのは、天皇の外戚になること
平城時代後期から平安時代の、藤原氏・摂関家のやり口である
なお、平将門も桓武天皇の血統、高望王の子孫
「新皇」を名乗り東国の独立を目指し挙兵
頼朝は鎌倉殿 征夷大将軍によって、東国の相対的独立が達成されたものの、朝廷の権威は継続する
源頼朝は、武家の棟梁候補、他の源氏を討っていくが
北条義時は、意図したものではないだろうが、源氏という武家の棟梁が邪魔だったのでは?
とくに源氏は、清和天皇の末裔、それが武家の棟梁ということは
京・西国・朝廷が、東国の上位にあり、坂東が地位的に、支配される構図となってしまう
時政は、牧の方によって、洗脳されていただろうが
義時と他の鎌倉の御家人は
京・西国・朝廷が
つまり権門と、それをあがめる連中が、鬱陶しかったのではなかろうか
だからこそ、承久の乱でも、朝敵になっても勝利できたと思う
歴史は特定の個人によって動くのだろうか?
鎌倉殿の13人では
いや。これまでの大河でも、いろいろと日本史に蘊蓄のある人たちでも
たとえば、源義経は頼朝に嫌われた、あるいは梶原景時の讒言が原因と語られることが多い
また、後白河法皇が、平家や源氏を手玉にとって、朝廷の権威を維持したなどとも言われている
しかし、土地からの税収を確保するために、物騒になってきた地方を治めるには、武士と彼らを抑える源氏や平氏の軍事貴族の助けが必要
これが、藤原氏をはじめ公家貴族の衰退につながり、軍事貴族を直轄管理する、上皇朝廷の院政が隆盛となる
時代は武力による政治決着が主となり、平家の台頭や、鎌倉幕府の誕生となる
平家の滅亡は劇的だったが、遅かれ早かれ軍事貴族の誰かによる、武家政権は誕生したと思える
歴史は特定の個人が活躍したとしても、それはたまたま
同じような属性の人物が、歴史の主役や脇役になるはずである
「鎌倉殿の13人」では
源氏を筆頭に、貴族や朝廷が、かなり悪し様に描かれている
北条氏は、陰謀や暗殺は得意でも、合戦で武功をあげた訳ではない
義時は、朝敵となったものの、
弟の時房、子の泰時や朝時、孫の時氏(泰時の嫡男)は、大軍で攻めたので、朝廷軍を圧倒している
微妙な合戦を勝ち抜いたわけではない
とくに九条兼実の弟、慈円の『愚管抄』にも書かれているようだが
朝廷や貴族の凋落
武家政権の必然性
鳥羽上皇亡きあと、保元・平治の乱で、朝廷の権力闘争が源平主導で戦われて、「武者の世」が日本のトレンドになったと嘆いている
たまたま、平家が滅亡し、頼朝が征夷大将軍になり、また源氏も嫡流が滅亡し、北条氏が事実上の支配者となったと言えるだろう
歴史のターニングポイントは
後鳥羽上皇による承久の乱に、鎌倉東国武士団が勝利すること
これによって、京の朝廷が凋落
さらに、朝廷がかかえる荘園や、西国武士の土地などの支配権を奪取し、鎌倉東国武士団に分け与えることになる
こうして、政治的にも経済的にも、鎌倉武家政権は超安定となる
つまり承久の乱は、鎌倉幕府の最大の危機であったし、最大のチャンスでもあった
承久の乱の前は、鎌倉に武家政権が誕生していたが、関東ローカルどまり
源氏が多く殺され、御家人が多く族滅させられ、すべて権力闘争
殺伐としながらも、関東幕府は維持される
北条義時追討の院宣を発しなければ、承久の乱が起こらなければ、鎌倉側からは決して、京・西国へ侵攻することはなかったはず
承久の乱は1221年、後鳥羽上皇は1239年、配流先の隠岐にて崩御
上皇が、もう少し時間をかけて、準備していたら、あるいは後述の女性がらみがこじれなければ
鎌倉の、将軍も執権も、掌中に収めたかもしれない
ところで、ドラマでは
藤原兼子(シルビア・グラブ)の子 頼仁親王が鎌倉殿として、ほぼ決定していた
実朝暗殺のあと、後鳥羽上皇は、愛妾亀菊の荘園の地頭解任などを
皇族将軍の交換条件とした
じつは、この時期、兼子は上皇に遠ざけられている
(頼仁親王を鎌倉殿として坂東に送るように、急かしたらしい)
なお頼仁親王は、承久の乱で連座して備前児島へ配流され、その地で没することとなる
兼子や頼仁親王も数奇な運命をたどる
北条政子の従三位、さらに半年後には従二位を後押しした兼子を活かせば、頼仁親王が鎌倉殿になっていたなら…
源氏将軍とは違い、上皇の息子、皇族なので、おいそれと反逆も暗殺もできないだろう
違うかたちで、関東武士団を牛耳ることもできた可能性もある
足利氏は、超有力御家人であり、源氏の血統
承久の乱で鎌倉方に組みし貢献したので、排除できなかった
将来的に、鎌倉幕府 北条氏を打倒する勢力を温存してしまうことになる
また、執権得宗家はよしとして、北条氏が将軍にはなれなかったが、
武家の棟梁として明確な貴種の系統ではなかったということだろう
北条義時の死については
病気による急死
三番目の妻 伊賀の方による毒殺
近習の小侍による殺害
などがある
源氏や、数多くの御家人を族滅させ
源氏武家政権を乗っ取った、朝廷に反逆し上皇や天皇を流罪に処した
非常に悪業が目立っている
そのため、自然死では終わらせたくない願望が止まないようである
ネットでも、義時殺人事件を期待して、犯人捜しが盛んである
泰時は、阿波局(八重:新垣結衣)の子
義時のあと、三代執権に
姫の前(比奈:堀田真由)の一番目の息子
北条朝時:名越流北条家
名越流の北条氏は、当分は、泰時直系の得宗家に反抗的だった
ただし、最後の名越流当主の北条高家は、後醍醐天皇側の倒幕軍と戦闘して討ち死にする
姫の前の二番目の息子は
北条重時:六波羅探題北方・鎌倉幕府連署
重時の次男 北条長時は赤橋流祖
最後の執権は、赤橋守時
足利尊氏の正室赤橋登子
足利将軍は、重時の、つまり北条義時の子孫とも言える
伊賀の方(のえ:菊地凛子)の一番目の息子
北条政村
伊賀氏の変で、伊賀の方は伊豆へ配流されるも、政村は連座せず
その後、執権や連署となって、泰時系得宗家を支える
伊賀の方が、北条義時を毒殺したという説がある
義時を殺害し、伊賀の方の息子 北条政村を次の執権、娘婿の一条実雅を次の鎌倉殿にと企んだ
共謀者は、伊賀の方の兄弟(光宗・朝行・光重)
そして例によって、三浦義村…
これが「伊賀氏の変」と言われている
六波羅探題 京都にいた北条泰時が、鎌倉に戻り事前調査して、この「伊賀氏の変」を否定する
特に政村は無関係と強調する
しかし否定されたにもかかわらず
伊賀の方は、伊豆北条へ流罪
伊賀兄弟も、一条実雅も流罪
不思議である
まず伊賀兄弟が、三浦義村の館に出入り
伊賀兄弟はさらに、その夜に伊賀の方のいる義時の館に集まる
北条政子が、三浦義村の館に訪問
義村は、政村は無関係、ただ伊賀兄弟は怪しいとほのめかす
宿老会議にて、義村は軟禁、有力御家人に忠誠を誓わせる
その後
伊賀の方は、伊豆北条へ流罪
伊賀兄弟も、一条実雅も流罪
理由は、陰謀が露見したと
伊賀の方は、伊豆へ流された数カ月後におそらく死亡
一条実雅も、4年後に配流先で変死
北条政子の意向としては
泰時を執権にすること
義時の他の息子の権力奪取を阻止すること
三浦義村の影響力を排除すること
伊賀氏の変は、結局なかった!?
政子は、義時死の1年後に死亡
そして
伊賀兄弟は、鎌倉幕府へ復権
北条政村も、執権就任したが得宗家のサポートに終始
伊賀の方は、ひょっとすると政子の命で暗殺
一条実雅の変死は、伊賀兄弟復帰で、都合が悪くなった義村が、口止めのため暗殺?
伊賀氏の変は、永遠の謎である
どうせなら
スピンオフで、北条義時死後のエピソードを、
制作放送して欲しいものですね
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