朝廷は後鳥羽上皇の専制院政、幕府は源氏正統断絶し将軍不在、千載一遇の倒幕のチャンスも承久の乱で朝廷権力失墜と政治力経済力軍事力は鎌倉幕府と北条執権に
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次のNHK大河ドラマの主役は、北条義時、鎌倉幕府の第二代執権
後鳥羽上皇による北条義時追討の院宣で、朝敵となった義時が反撃
東西の武士が激突して「承久の乱」が起こり、後鳥羽上皇側の敗北
義時追討の院宣は取り消され、朝敵の汚名は晴れたが、明治になって朝廷をないがしろにした逆臣あつかいに
武士は、軍事貴族、祖先は天皇家
源氏は清和源氏が代表、清和天皇の血を引く
有名なのは、分流の河内源氏 源義家(八幡太郎義家)で、義家の嫡流の義親→為義→義朝から源頼朝となる
(ちなみに義家の父は源頼義で母は平直方の娘、直方は桓武平氏の当主で所領の鎌倉を頼義に与えたとのこと)
義家の四男が義国で、子孫は足利尊氏と新田義貞
義家の父 源頼義の子孫が甲斐源氏の武田信玄
平氏は、桓武平氏と言われ、桓武天皇の系統で有名なのは平清盛
高名な平将門も、桓武平氏
平将門と並び称せられる藤原純友は、中臣鎌足の子 藤原不比等の子らの藤原北家の流れ
藤原北家は、藤原道長などの摂関家も、朝敵逆賊も、多くの公家も武家も輩出
なお鎌倉北条氏は、祖は平直方、桓武平氏の系列と自称している
北条義時は、鎌倉二代将軍 源義家を抑制するために13人合議制に加わり、父時政と組んで、義家を追放し実朝を三代将軍に擁立し、13人をはじめ有力御家人を何人も暗殺したり討伐したり、はては時政も失脚させる
実朝も暗殺されるが、義時の関与も疑われる
(そもそも頼朝の突然死も不審)
とにかく、戦争や暗殺がひっきりなしである
源氏正統の血統は断絶
後鳥羽上皇の親王を将軍に迎える要請も、上皇が拒否
さらに上皇から、義時追討の宣旨が、日本中の武家に発布される
鎌倉幕府の権力闘争に没頭して、有力ライバルを追い落とし、将軍も消し去り、頂点に上り詰めたところで、日の本の朝敵として追討されそうになる
天皇は、日ノ御子、天孫、天照大神からの神の子孫
誤算であり、青天の霹靂、驚天動地、想定外、不確実性の極みだっただろう
鎌倉将軍の源氏正統が断絶し、子の親王の将軍要請を却下し、格下の摂関家師弟を将軍として送ろうとして鎌倉方が拒否、将軍不在で幕府の権威失墜?
武家の棟梁の源氏も途絶え、皇族将軍も拒絶、武家を束ねる要、神輿がなくなった以上、鎌倉幕府は空中分解するだろうと目算?
上皇の義時追討に対して、第一皇子土御門上皇は反対、多くの公卿たちも反対、上皇の第三皇子順徳天皇は倒幕に積極的
北面の武士、西面の武士、在郷近隣の武士も参集
上皇の院宣によって、朝敵となった義時は意気阻喪し、朝廷に反逆する不埒な武士もいないだろうと、超ポジティブになる
ところが、鎌倉方は院宣を無視し、「宣戦布告」の書状を京へ
幕府が軍を起こすとは!
これまた、誤算であり、想定外だっただろう
1183年、源義仲(木曽義仲)に追われ、平家一門は安徳天皇や三種の神器とともに都落ち
三種の神器がないまま後鳥羽天皇は、この年践祚(せんそ)、翌年即位
安徳天皇は、父高倉天皇、母平徳子
平家滅亡とともに、8歳の天皇は二位尼(平時子 清盛の継室)に抱きかかえられ、壇ノ浦の海の底に沈む(1185年)
このとき、皇位神事に使われる三種の神器のうち、神璽と神鏡は源氏方に回収されるものの、宝剣は海の底といわれている
院政とは、天皇位を後継に譲り、みずからは太上天皇(上皇)となって、天皇に替わって政務を執るシステム
院政を敷く上皇の下に、複数の天皇や上皇も存在していた
時代背景としては、藤原摂関家の弱体化や、北面の武士、軍事貴族、源氏や平氏の台頭があった
代表的には、白河院
続いて、白河院に疎んじられた鳥羽院
また、皇位に就くなど夢にも思わなかった後白河院
平家の専横や、崇徳天皇など他の天皇の圧、さらに源氏の京侵攻や、鎌倉幕府の誕生など、波瀾万丈
後鳥羽院は後白河院の孫、文武両道、源平勢力の影響が少なくなった京で、北面の武士に西面の武士を加え、朝廷は政治的にも軍事的にも後鳥羽院の独裁となる
後鳥羽院は文学芸術にも耽り、和歌は藤原俊成に師事、その子 藤原定家を抜擢
勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』を編纂
藤原定家は、鎌倉三代将軍 源実朝の依頼に応じて、歌論書「近代秀歌」を著す
なお、新古今和歌集には、源頼朝の二首(前右大将頼朝 975,1786 )が載っている
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現在は絶版で中古品のみのようだ
政治的にも軍事的にも、専制できるようになった上皇朝廷
鎌倉将軍は源氏正統が断絶、皇族将軍要請を却下、格下の摂関家師弟を将軍として送ろうとしたが(摂家将軍)鎌倉方が拒否、幕府は将軍不在となっていた
現に、承久の乱のあとも、摂家将軍二代にわたって迎えたが、北条執権と対立、御家人の求心力も低下
幕府の権威は失墜する、倒幕は今がチャンス、と後鳥羽上皇の読みは当たっていたとも言える
北条政子の演説で、鎌倉方の武士は意気揚々
なお、大半の東国武士は、「勝つ方に味方する」のが武士のならわし、勝ち組に入れば負け組の所領を奪うことができる、などなど、大義も報恩もなく、打算まみれで対応
さて、義時の息子 泰時は20騎程度で鎌倉を出発
三方向から京へ向かい、最終的には20万弱の軍勢が押し寄せる
上皇は武装し比叡山に登って僧兵の協力を求めるも、これまでの上皇の仕打ちが災いして比叡山延暦寺に拒絶される
京方は、連戦連敗
幕府軍は寺社や京方の公家・武士の屋敷に放火、略奪暴行の限り
敗走した京方の武士たちは御所に駆けつけるも、上皇は門を閉じて彼らを追い返す
上皇は幕府側に使者を送って、この乱は謀臣の企てであったと義時追討の院宣を取り消し、謀臣らの逮捕を命じる院宣を出す
これによって、京方の公卿や武士が逆臣となり、義時や幕府軍は「勝てば官軍」となる
戦後処理として、
後鳥羽上皇は隠岐島に配流
順徳上皇は佐渡島に配流
倒幕に反対だった土御門上皇は望んで土佐国へ配流(後に阿波国へ)
後鳥羽上皇の皇子らも但馬国、備前国へ配流
仲恭天皇は廃され、後堀河天皇が即位
親幕派の西園寺公経が内大臣に
討幕計画に参加した上皇方の公卿は鎌倉に送られる途上で処刑される
その他の院近臣も各地に流罪または謹慎処分となった
京方の御家人を含む武士が多数粛清、追放された
京都守護は、六波羅探題に改組、幕府による京朝廷の監視
後鳥羽上皇の荘園は没収
京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられる
政治的、経済的、軍事的に、武家政権が確立
以降、戦国時代を含め、足利、織田、豊臣、徳川など、明治維新まで武士の世が続く
「鎌倉殿の13人」は、
前半は、平家打倒を含む鎌倉幕府の誕生
中盤は、13人を含む有力御家人との権力闘争
(将軍や父時政、政子を含む正室側室など女性たちとの確執も)
終盤は、承久の乱と京朝廷との対決と武家政権の確立
というストーリーを想定している
鎌倉内権力闘争からの、対京朝廷との戦争で、義時はピンチをチャンスに変えたのだろう