鎌倉殿の13人を中心とした陰謀・誅殺・族滅の名簿と年譜。鎌倉殿と征夷大将軍はイコールではない。源氏や武士の棟梁は意味なし。幕府誕生と承久の変勝利は「御恩と奉公」
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後述の年表を見ると、頼家が鎌倉殿になった数カ月後に、集団指導体制となり、頼朝専制が煩わしく鎌倉殿そのものの権力を抑制する意図が東国武士団にあったと思われる
評定衆 | 生涯 | 末裔 備考 |
---|---|---|
大江広元 | 政所初代別当 | 安芸毛利氏など |
中原親能 | 朝廷と幕府の折衝役 | 広元の兄 |
二階堂行政 | 政所執事世襲、検非違使を世襲 | |
三善康信 | 初代問注所執事 | |
足立遠元 | 義朝代からの武将 | 足立氏 |
安達盛長 | 武将。京事情に精通 | 安達氏 |
八田知家 | 義朝代からの武将 | 小田氏 |
北条時政 | 初代執権 | |
北条義時 | 二代執権 | 鎌倉幕府末まで執権得宗家 |
和田義盛 | 初代侍所別当 | 族滅 |
梶原景時 | 教養あり、和歌を好む | 頼家代に族滅 |
比企能員 | 伯母頼朝乳母、頼家乳母父 | 族滅 |
三浦義澄 | 義村の父 | 義村の子 泰村一族滅亡。他系統三浦氏存続 |
しかも、13人が集まって合議した記録もなく、北条氏を中心とした有力御家人で幕府を運営している
頼朝鎌倉殿の家人は、御家人と呼ばれるようになる
その御家人も、区分されていたらしい
門葉は、後門葉とも呼ばれ、源氏の血統
重要な人物は以下のとおり
門葉 | 備考 |
---|---|
平賀義信 | 門葉筆頭。次男の朝雅は牧氏事件で、京で誅殺される |
源範頼 | 頼朝により伊豆廃流後誅殺 |
大内惟義 | 平賀義信の嫡男。その嫡男惟信は承久の乱で京方につき大内氏没落 |
源広綱 | 頼朝に冷遇され逐電。子孫は太田道灌 |
足利義兼 | 北条氏娘が母の三男義氏とともに、北条氏と懇意で、尊氏につながる |
門葉は鎌倉殿候補でもあるので、地位待遇はよくても、命が危ない
源氏三代および北条執権の時代を生き延びたのは、足利氏のみか?
家子は頼朝親衛隊、御家人で門葉と侍の間に位置するとのこと
重要な人物は以下のとおり
家子 | 備考 |
---|---|
北条義時 | |
和田義茂 | 和田義盛 弟 |
梶原景季 | 梶原景時 嫡男 |
榛谷重朝 | 稲毛重成 弟 |
三浦義連 | 三浦義澄 弟 |
千葉胤正 | 千葉常胤 嫡男 |
八田知重 | 八田知家 子 |
ハイライトは、鎌倉殿の13人(評定衆)
門葉、家子以外の御家人で、重要な人物は以下のとおり
家子 | 備考 |
---|---|
北条時政 | |
安達盛長 | |
三浦義澄 | 三浦義村 父 |
稲毛重成 | 畠山重忠の乱のあと、ほぼ族滅 |
工藤祐経 | 曾我兄弟の仇討ちで討たれる |
加藤景廉 | 仁田忠常を義時命により誅殺 |
大庭景義 | 大庭景親 兄 |
和田義盛 | 和田合戦で族滅 |
千葉常胤 | 頼朝挙兵に参陣 |
上総広常 | 頼朝挙兵に参陣 誅殺 |
梶原景時 | 梶原景時の変 族滅 |
足立遠元 | |
畠山重忠 | 畠山重忠の乱 誅殺 |
河越重頼 | 義経の舅として誅殺 |
八田知家 | 阿野全成を誅殺 |
比企能員 | 比企能員の変 族滅 |
ハイライトは、鎌倉殿の13人(評定衆)
官僚?として、4名が13人(評定衆)に入る
大江広元、中原親能、二階堂行政、三善康信
数々の戦乱と誅殺などの歴史は以下のとおり
年月 | 死者 | 戦乱事件など | 享年 備考 | 殺害(命令)者 |
---|---|---|---|---|
1180年8月 | 北条宗時 | 石橋山の戦い | 享年? | 伊東祐親軍 |
1181年3月 | 義円 | 墨俣川の戦い | 享年27 | 平氏軍 |
1182年8月 | 源頼家誕生 | |||
1182年11月 | 亀の前事件 | 頼朝愛妾宅を破壊。時政らは伊豆へ | ||
1183年7月 | 平家 都落ち | 義仲入京 | ||
1183年 | 北条泰時誕生 | 母側室阿波局(素性不明) | ||
1183年12月 | 上総広常 | 誅殺 | 享年? | 梶原景時(頼朝命) |
1184年1月 | 源義仲 | 宇治川の戦い | 享年31 | 範頼・義経軍 |
1184年2月 | 一ノ谷の戦い | |||
1184年4月 | 源義高 | 暗殺(逃亡先にて) | 享年12。義仲息子、頼朝娘大姫夫 | 頼朝命 |
1184年6月 | 一条忠頼 | 暗殺(鎌倉の宴席にて) | 武田信義嫡男。武田氏没落 | 頼朝命 |
1185年3月 | 平家滅亡 | 壇ノ浦の戦い | 義経・梶原景時 | |
1185年11月 | 守護・地頭の設置 勅許 | 時政千騎入京。時政京都守護 | ||
1186年5月 | 源行家 | 斬首 | 享年43?。義仲や義経と組む | 頼朝 |
1189年閏4月 | 源義経 | 衣川の戦い | 享年31 | 藤原泰衡 |
1189年10月 | 藤原泰衡 | 奥州合戦 | 享年35 | 頼朝 |
1190年11月 | 頼朝上洛 初 | 後白河法皇・頼朝対面 | ||
1192年3月 | 後白河法皇 崩御 | 享年66 | ||
1192年7月 | 頼朝 征夷大将軍 | |||
1192年8月 | 源実朝誕生 | |||
1193年5月 | 工藤祐経 | 曾我兄弟の仇討ち | 曽我祐成・曽我時致 | |
1193年8月 | 源範頼 | 伊豆配流後誅殺? | 頼朝命 | |
1193年 | 北条朝時誕生 | 義時次男(嫡男?) | ||
1195年2月 | 頼朝上洛 二度目 | 長女大姫入内画策 | ||
1197年7月 | 大姫 | 享年20 | ||
次女三幡姫入内画策 | ||||
1199年1月 | 源頼朝 | 落馬? | 享年51 | |
1199年1月 | 頼家 二代鎌倉殿 | 20日左中将、26日家督相続 | ||
1199年4月 | 十三人の合議制 | |||
1199年6月 | 三幡姫 | 享年14 | ||
1200年1月 | 梶原景時 | 梶原景時の変 | 享年60?。上洛を企図して途上 族滅 | |
1200年1月 | 三浦義澄 | 享年73? | ||
1200年4月 | 安達盛長 | 享年65? | ||
十三人の合議制 解体 | ||||
1202年7月 | 頼家 征夷大将軍 | |||
1203年6月 | 阿野全成 | 常陸国配流後 誅殺 | 享年51 | 頼家命 |
1203年9月 | 比企能員 | 比企能員の変 | 享年?。比企氏族滅 | 北条氏 |
1203年9月 | 仁田忠常 | 誅殺 | 享年37 | 加藤景廉・義時命 |
1203年9月 | 実朝 三代鎌倉殿/征夷大将軍 | |||
1203年 | 北条時政 初代執権 | |||
1203年11月 | 一幡 | 享年6。頼家長男 | 北条氏 | |
1204年7月 | 源頼家 | 暗殺(伊豆追放後) | 享年23 | 北条氏 |
1204年11月 | 北条政範 | 病で急死(京) | 享年16。母牧の方、北条嫡子予定? | |
1205年6月 | 畠山重忠 | 畠山重忠の乱 | 享年42。 | 時政謀・実朝命 |
1205年6月 | 稲毛重成 | 重忠を謀略で殺害した罪で誅殺。ほぼ族滅 | 義村 | |
1205年閏7月 | 牧氏事件 | 時政・牧の方、伊豆へ隠居 | 義時・政子 | |
1205年8月 | 平賀朝雅 | 京都にて暗殺 | 源氏。牧氏事件で鎌倉殿擁立の企図 | 義時命 |
1205年 | 北条義時 二代執権 | |||
1207年3月 | 足立遠元 | ほぼ70。資料に名記載なし | ||
1209年1月 | 中原親能 | 享年66。大江広元の兄 | ||
1213年2月 | 泉親衡の乱 | 和田一族による頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し打倒義時が目的 | ||
1213年5月 | 和田義盛 | 和田合戦 | 享年67。和田氏族滅 | 義時 |
1215年1月 | 北条時政 | 享年78 | ||
1218年3月 | 八田知家 | 享年76? | ||
1219年1月 | 源実朝 | 暗殺(鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際) | 享年28 | 公暁(頼家息子) |
1219年1月 | 公暁 | 誅殺 | 享年20 | 義時・義村 |
1219年2月 | 阿野時元 | 誅殺 | 阿野全成と阿波局の子。源氏 | 義時命 |
二階堂行政 | 実朝代に消息不明 | |||
1220年5月 | 禅暁 | 享年17~19。源頼家四男 | 義時命? | |
1221年5月~ | 承久の乱 | 戦後武家政権は東国から日本全土に拡大 | ||
1221年8月 | 三善康信 | 享年81? | ||
1224年6月 | 北条義時 | 享年62 | ||
1224年6月 | 伊賀氏の変 | 義時の継室伊賀の方と兄の伊賀光宗 | ||
1224年6月 | 北条泰時 三代代執権 | |||
1225年7月 | 大江広元 | 享年67? | ||
1225年8月 | 北条政子 | 享年69 | ||
1227年12月 | 阿波局 | 阿野全成 妾 | ||
1239年 | 三浦義村 | 享年71? |
ハイライトは、鎌倉殿の13人(評定衆)
※年月は、旧暦をベースに、新暦も混在
源氏は、武士の棟梁と認知されていたのだろうか?
東国(坂東)武士は、ほとんどが坂東平氏
千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・畠山氏などは、平氏
所領を安定させるのは、それなりの権門、源平藤橘の誰でもよかったはず
当時の日本の土地は、荘園や公領となっており、所有権?は天皇をはじめとする皇族、摂関家などの上級貴族、大寺社にあり、現地の雇われ監督者が徴税と納税を担当し、やがて守護・地頭がとってかわる
ちなみに、八幡太郎義家が、源頼義と平直方の娘の間に生まれた子であり、鎌倉を所領にしていたのは平直方である
なお、直方は頼義に鎌倉を譲り渡している
義家は、頼朝や足利尊氏の祖でもある
義家は、出羽守、下野守、陸奥守などに任じられているが、国司としてその土地の祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司っている
頼朝や鎌倉殿は、所領がなかった
義家は源氏の棟梁だったかもしれないが、源氏が武士の棟梁であったとは言えないだろう
徳川家康および江戸幕府によって、後世まで征夷大将軍は源氏オンリーと言い習わされていて、家康は新田氏後裔と系図詐称しているが、
そもそも、四代鎌倉殿以降の摂家将軍や宮将軍は、源氏ではない
織田信長も、本能寺の変の直前、太政大臣・関白・征夷大将軍のどれかに就くかと打診されたなど諸説がある
豊臣秀吉も、関白や太政大臣に就いたが、将軍を選ぶことも可能だったらしい
近衛前久の猶子(養子)となって、関白となる
摂政や関白を辞して、子が摂関になった場合、太閤と呼ばれる
1185年、北条時政が千騎を率いて入京し、「文治の勅許」によって鎌倉殿による守護・地頭職の設置・任免が許可される
守護とは警察・軍事権の官職、地頭とはその土地の徴税権を持つ職。守護は地頭を監督する
(土地ベースの、警察、軍事、徴税。それが司法と行政の土台や柱となる)
守護・地頭の設置任免が許可されたことによって、1185年を鎌倉幕府の誕生と、最近は修正されている
1192年の頼朝が征夷大将軍に任じられたことよりも重要な意義があるということ
また頼朝死後、頼家は家督相続して鎌倉殿になるものの、征夷大将軍に任じられるのは3年後
さらに、一時期は北条政子が、尼将軍、鎌倉殿の役割を担ったとも言われている
鎌倉殿は、征夷大将軍とイコールではなく、武士の棟梁でもなく、守護・地頭の設置任免の権を持っている者と言える
鎌倉殿の実権は、
御家人を任命して所領をあたえる「御恩」
御家人は見返りとして、鎌倉殿のために軍役や納税を負担する「奉公」
と思われる
頼朝のメインテーマは、京・朝廷の権威によって、「御恩と奉公」の実権を握ること、そのため坂東武士の「奉公」によって平家の所領を奪い「御恩」を実現すること、また権威の脅威となる源氏は兄弟であれ滅ぼしていくことだったのだろう
娘を入内させようとしたことも、同様
京・朝廷の権威が必要なので、ローカル「鎌倉殿」よりもナショナル「征夷大将軍」の肩書きが欲しかった
また、アンチ京が過ぎた上総広常を誅殺したのも、京・朝廷の権威をないがしろにするからだったと思う
承久の乱でも、朝敵とされたのは義時個人だったにもかかわらず、鎌倉殿代々の「御恩」を忘れず、京に進軍して「奉公」を果たせと政子がアジテーションしたとか伝わっている
鎌倉幕府の誕生や、承久の乱の勝利は、「御恩と奉公」によるものであり、さらには戦後、後鳥羽上皇の配流をはじめ朝廷の権威を失墜させて東国の優位性を築いたこともさることながら、
京方の院・天皇・公家・武士の所領を没収して幕府方の御家人に分配し、数多くの地頭がうまれる
東国発祥の武家政権は、ローカルからナショナルの日本全国規模となり、明治維新まで続くことになる
話は変わって、「鎌倉殿の13人」で、
鎌倉に勢揃いした頼朝の異母兄弟
父親の義朝が、よほど女性にもてたのか、義朝が好き者だったのか、将来的な子孫の活躍に期待したのか、清和源氏の貴種の血筋だったからか…
義朝の男子は、「鎌倉殿…」に登場しないが他に、 義平、朝長、義門、希義と多い!
最後は殺されるものの、義経と範頼は、幕府の誕生に大いに貢献している
頼朝も、政子のプレッシャーをものともせず、かなりセフレを調達しているようで、源氏の血か、当時の男性の普通のあり方なのか
(大進局と、子の貞暁もいた)
源氏は、血統を絶やさず種付けを続けること、棟梁候補を滅ぼすことが、同時進行
その異母兄弟の、義円は戦死、義経と範頼は頼朝に討たれる
義仲・義高親子、行家も討たれる
武田信義も、嫡男一条忠頼を暗殺され、甲斐源氏は勢力を失う
これは、北条氏も大いに参考にしたのだろう
自分の権力を脅かす者は、たちまち討ち滅ぼすに限る…
時政は、娘婿の阿野全成が、頼家・比企氏に討たれ、頼家の嫡男一幡を討ち、比企氏を族滅させる
時政・牧の方の娘婿である平賀朝雅(源氏)と、義時・政子との対立から、時政・牧の方を伊豆へ追放し、平賀朝雅を京で討ち取る
義時は、和田氏を族滅し、実朝暗殺者の公暁を討ち、妹阿波局の子阿野時元(源氏)も討つ。
足利氏は、執権得宗家とうまく付き合って、族滅を免れる
北条義時のターゲットは、現鎌倉殿および鎌倉殿候補の源氏の血統と、乳母父や外戚など源氏の血統を担ぐ有力御家人に限っている
あるいは仁田忠常なども、源氏血統(頼家)の命を受け北条氏に敵対する可能性を持ったからとも思える
父親の時政さえ、継室牧の方にそそのかされて娘婿の平賀朝雅(源氏)を新将軍として擁立しようとしたため(牧氏事件)、時政・牧の方を出家させ鎌倉から追放し伊豆に隠居させる
さらに、京にいた朝雅を討たせる
義時は、北条氏嫡男ではなかった可能性がある
嫡男は、牧の方が母の政範という説がある。しかもこの政範は京で突然病死したと
(義時による暗殺の可能性もありそう)
時政が初代執権になったあと、頼家伊豆追放・暗殺、政範病死、畠山重忠の乱、牧氏事件、牧の方婿で源氏の平賀朝雅暗殺、そして義時二代執権就任と、2年ちょっとの間に陰謀や殺人が立て込んでいる
また、泰時の母は阿波局と言われているが、この人は正体不明
正室の男子は朝時
また義時死後、 伊賀氏の変が起こり、義時継室の伊賀の方と兄の伊賀光宗が首謀者とか、こんな陰謀はなかったとか…
事件後、伊賀の方と光宗は流罪となっている
なお、伊賀の方の息子 政村は連座しておらず、それどころか七代執権となり、そのご連署ともなり、事件は架空で伊賀氏の勢力を奪うためだったとも
なんやかんやで、泰時が三代執権になっている
執権は、鎌倉殿でも、征夷大将軍でもない
さらに、官位は貴族のほぼ最低限に近い
時政は従五位下、義時や泰時は従四位下、元寇に功あった北条時宗は正五位下(明治時代に贈従一位)
平清盛は、従一位、太政大臣
源頼朝は、征夷大将軍、正二位、右近衛大将(うこんえのだいしょう 右大将)
源頼家は、征夷大将軍、正二位
源実朝は、征夷大将軍、正二位、右大臣
足利義満は、征夷大将軍、従一位、太政大臣、源氏長者
徳川家康は、征夷大将軍、従一位、太政大臣、源氏長者、贈正一位
北条執権にとっては、京・朝廷の権威に頼らず、もはや官位はさほど重要ではなかったのだろう
なお、源氏の「門葉」と同じように、北条執権得宗家も同族の有力者は「連署」となる
執権は代々相模守、副執権である連署が武蔵守となる
さて後世、源氏門葉と北条氏連署のように、北条氏や執権も、同様のひずみが出てくるようになる
北条氏も、執権を辞しても得宗として執権以上の権力を護持する
他方で、得宗家の私的な従者にすぎなかった御内人(みうちびと)が暗躍するようになる